ハワイで歌舞伎?と思われる方は多いでしょう。日本固有の芸術と思われがちな歌舞伎ですが、実は日本とハワイが辿った複雑な歴史を背景に遠く離れた南の島ハワイに日本人の移民とともにひっそりと根付いていたのです。
まだ王国であったハワイへの日本人の入植は1868年に始まりました。入植者たちは、我慢、忠義、義理などと言った日本人の精神性に支えられ、ひたすら働き続けました。そのような彼らの元へやがて慰問に訪れた日本から旅の一座の芝居は彼らの目にどのように映ったのでしょうか。ところで移民者の中には多様な業種の人々が含まれており、芝居の知識を持った人も含まれていたようです。彼らと旅の一座の出会いがのちのハワイでの歌舞伎の発展につながっていきました。最初の移民から25年後には初めての「歌舞伎」がすでに上演され、オアフ島のみならず、ほかの島々にも芝居小屋が建つほど当時の日本人社会に溶け込んでいたようです。わずかに現存する写真には幟が立った当時の芝居小屋「Shurakukan」「Asahi Theatre」が写っていますが、そこからも当時の賑わいを感じることができます。大切な資産をつぎ込み歌舞伎を根付かせることに尽力した有力な日系人もおり、彼らの存在なくしては、今日の「Kabuki」」という地歌舞伎はなかったことでしょう。
しかし、彼ら日系人社会も徐々に世代交代が進み、1924年にはすでにハワイ大学において英語による「忠臣蔵」(「The Faithful」)が上演されています。これは、人種差別がまだ行われていた当時、大学の演劇サークルで日本人学生たちが白人の役をやらせてもらえなかったため苦肉の策としての上演でした。 彼らはこの上演をきっかけに歌舞伎を使うことで自分たちの英語の上達に使おうと考えました。英語で歌舞伎を上演し、優秀者には表彰をするというものです。これによって学生たちは英語で上演することでアメリカ国家への同化を進めると同時に、歌舞伎を演じることで祖国を表現し、文化を深く識ることができたのです。 こうして歌舞伎はハワイ大学において英語で上演されるようになっていきました。
以降、何度となく上演されてきた「歌舞伎」ですが、これらはあくまでも東京の歌舞伎座の本興行に出演するような役者が演じる本来の歌舞伎ではなく、地芝居や旅の一座がハワイに持ち込んだ芝居を「歌舞伎」として上演したものでした。しかし皮肉なことに第二次世界大戦という不幸な歴史が、ハワイの歌舞伎に新しい風を吹き込むことになりました。
戦後、GHQの検閲官が東京の歌舞伎座での芝居の上演台本を検閲していたことをご存知の方も多いと思いますが、この検閲官の中にハワイ大学の教授がいたのです。「大歌舞伎」について多くを学んだ彼は、ハワイ大学へ戻り演劇学科(のちの演劇舞踊学科)の基礎を作ったのです。これに日系人コミュニティーの中で歌舞伎のノウハウを持った人々が参加し、次第にハワイ大学演劇舞踊学科の授業が出来上がっていきました。
1963年には大学に劇場(のちのケネディーシアター)が新設されました。大学での歌舞伎公演には日系人のみならず様々な人種の学生たちが参加し、ハワイ大学の人種を問わない配役の方針は本土の演劇界に先立ち極めて革新的でした。過去には2代目中村又五郎、尾上九郎右衛門、中村扇雀(現、坂田藤十郎)ら錚々たる大歌舞伎の役者が、演劇舞踊科の教鞭を執っています。このように大歌舞伎との関係や土地柄を生かしてハワイ大学の歌舞伎はほかの島々をめぐったり、アメリカ本土の演劇祭や全米ツアーへと徐々にその活躍の場を広げていきました。
しかし大学の上演を陰から支えてきたローカルの人々の世代交代も進み、「Kabuki」も転換期に来ていると言えます。2021年春、学生たちが来日し「Kabuki」を里帰りさせるとともに、新たなに日本の伝統文化の数々を吸収することが地元のコミュニティーとハワイ大学が支えて来た「Kabuki」とその絆を再び強固なものとし、ハワイの歌舞伎の歴史に新たな1章を加えることになるでしょう。